新聞の販促は新聞社を地獄に連れて行くと思う

先週の日曜に、鎌倉市大船地元の熊越新聞店が読売新聞の販促の電話をしてきた。 早口で東京の本社が勝手にノルマを課して来ること、助けて欲しいこと、そして契約して呉れたら幾らでも何でも販促の景品を差し上げること、をまくし立てる。

熊越新聞店は、自分で手書きの鎌倉市大船の地域の情報を流すコミュニティ紙「くまこし新聞」を作っていて、読売新聞の購読者に配る、というような独自で息の長い活動をしている感心なお店である。 僕もかなり気に入っていて、実は家内が読売新聞から今の朝日新聞に切り替えてしまったのがちょっと残念だったりもした位なのだが。

新聞店そのものは良い。 しかし、「契約して呉れたら幾らでも何でも販促の景品を差し上げる」というのが非常に気に食わない。 僕は新聞を読みたいから金を払うのであって、景品が欲しいから新聞を取るのではない。 景品欲しさに、最低期間(多分3ヶ月?)契約しては、次々に朝日=>読売=>日経=>朝日、みたいな新聞変更をする欲深な人間がかなり多いらしいし、新聞を購読すると言ったら、家内が山のように洗濯洗剤を貰っていて、あきれ返った。 このコストは全部、景品を配布する販促員の給料も含めて、新聞代に上乗せされているんだよね?

僕は、長年の工夫で磨き上げられた見出し技術で読み易く構成された「新聞」は読みたいが、山のような景品やら、デリカシーの無い身勝手な新聞販促員の給料分「上乗せされた新聞代」を払うのは真っ平御免だ。 本当に真っ当な取材をして、編集して、印刷された純粋な「新聞」代を支払いたいのだ。

強欲な「景品目当て」の旧世代連中は、自分達の要求する景品の分の上乗せ料金をきちんと積み上げた、高額な新聞代を払えばよろしい。 僕のように、純粋に新聞が欲しい者には、一切景品を寄越す必要は無いから、その分だけうんと安い価格で新聞を届けて貰いたいのだ。

米国の新聞社がどんどん廃刊に追い込まれている様子などもネットで読むが、日本の新聞のこの低レベルな問題点は、米国ではまず有り得ないだろうと思う。 米国の新聞業界とは周回遅れだな、と感じさせられる。 

しかし、こういう低レベルな販促・景品システムを作り出し、維持して来たのは、景品を要求し、新聞の質を問わないような「日本の民度」なのかも知れない。 政治の分野で「その国はその民度に応じた政治を得る」という言葉があるように、新聞の分野でも「その国の民度に応じた新聞を得る」ということは、ある程度正しいのかも。 何となくこのシステム、世界でも類を見ない日本の携帯電話の販促システムと似ているような気がするから、もしかすると、こういうやり方が、日本人の性根に適合しているのかも知れない。 そうだとすると、悲しい気がするが。 

その携帯電話でさえ、今は以前の馬鹿みたいな初期コスト0円などという仕組が減り、ちゃんと機械の値段を払うようになりつつある。 新聞も是非、洗剤や野球のチケットなんかで馬鹿な読者を釣るのは止めるか、料金二本立てシステムにして、本当に新聞を読みたい人間には景品一切無しで新聞だけを届ける、そんな仕組を実現して貰いたいものだ。

もしかすると、末端の新聞販売店での売り上げなんて、新聞社本体では重視していないのかも知れない。 押し紙も含めた「発行部数」による、対広告主の広告効果の誇大主張、そこから来る広告収入を目的にしているとしたら、利潤を度外視した景品ばら撒きも、経営戦略的には有り得る方策なのかも知れないが、結局それは広告主(=我々がサービスを購入する企業群)の製品・サービス価格の押し上げという形で我々に降り掛かって来る訳だから、これを放置するのは自分にとって不利益な訳である。

まあ、そういう議論をすると、より大きな金が流れている(と思われる)テレビ業界でも言えることなのだろう。 テレビ局は直接に景品をばら撒いたりしない分だけ、末端生活者からは見え難く、より邪悪な商売、と言えるのかも知れない。