指輪物語と経済システム

指輪物語の「指輪」は、ベトナム戦争当時などは、核兵器の発射ボタンではないか、として最終兵器の寓意と考えられたらしい。 しかし最近では僕は指輪は、経済システムの支配権のことなのではないか、と考えるようにもなった。

全てを支配する魔王サウロンの存在そのものが、英米型の市場資本主義そのもののように思える。 人間から希望と時間を奪い尽くす、貪欲な闇の力。 それはエンデが描くところのモモを彷彿させるかのようだ。

もちろん、映画の前編に散りばめられる戦闘シーン等を観れば、戦争そのものであり、指輪は兵器の支配権のようにも思えるかも知れないが、現代で最も猛々しいものは、実は経済システムなのではないか、と自分が考えているせいか、今回の映画でも、そういう見方をしていた。

それでは、指輪を溶岩流に放り込んで破壊した後のサウロンの破滅と平和の世界は、これは一体、どういう状況を指すのであろうか? それが僕にはまだイメージ出来ずにいる。 多分、それは現代の最も巨大な問題の一つには違いない。

最近読んだアーサー・C・クラークの「3001年宇宙の旅」では、単純に「共産主義が最も理想的な社会体制であることは疑う余地が無いが・・・」という記述があったように記憶している。 社会体制としての共産主義は良いが、それを運営する意思決定方式としての共産党一統独裁は全く巧く行く見込みが無い。

世界中の生産設備の総容量は、今世界に生活する人間全員を物質的に豊かにして余りあるほどのものになっている、と思うのだけれど、その豊かさを人々に遍く行き渡らせる為の分配システムが、まともに作動しないのだ。

自分がどういう代案を用意出来るのか判らないのに、今の体制を転覆しようというのもまずいんだろうが、間違いなく、今の市場至上主義資本経済体制は、人間を幸せにしないと思う。 じわじわと人々を蝕み、肥沃な人間の文化を食いつぶす「グローバリゼーション」と同じものなのだ。

昨晩、家内の弟が義父と義母の様子を見に忙しい中、東京から車を飛ばしてやってきたが、彼も激しい仕事のプレッシャーに苦しんでいるように見受けられた。 忙しくて父母の様子を見にくることもままならない、自分の未来のことをじっくり考える暇も無い、と嘆いていた。

我々は指輪を既にサウロンに渡してしまったのか?